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ぜんぜんわからない 俺たちは雰囲気でゴルフをやっている

設計家アリスター・マッケンジー|医学の道からゴルフの道へ|Golf World Top 100

2019年のマスターズはタイガー・ウッズの優勝で幕を閉じましたが,その舞台となったオーガスタナショナルの共同設計者のひとり,アリスター・マッケンジーについて,少し知ってみるのも悪くないでしょう。

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ソース

Dr Alister MacKenzie — Golf World Top 100, 8 April 2019

拙訳

ボビー・ジョーンズがゴルフコースを造るためにかつてジョージアの果物農園だった場所を買ったとき,彼はヨークシャー・デイルズ出身の医学博士を設計家として呼び出した。そして,その後は歴史となる。ここでは Peter Masters が,アリスター・マッケンジー博士の見事で最後は悲劇的な物語を語ってくれた。

1931年7月までさかのぼり,ジョージアとサウスカロライナを隔てるサバンナ川からわずか2マイル離れたところにある田舎の古い保育園での,ふたりの「友人」の会合を想像してみよう。「友人」と呼ぶのは,きっとそのふたりは過去数年で何度も会話を交わしていただろうし,この会合も,仕事というよりは私的なもので,お互いにリラックスした雰囲気で行なわれただろうから。

伝説のアマチュアゴルファーであるボビー・ジョーンズが,満面の笑みを浮かべて温かい手を差し出してアリスター・マッケンジーの手を握り,後に両者にとって永遠の伝説になる場所に迎い入れたことは,容易に想像ができる。ジョーンズは,自らのオーガスタナショナルがどのような場所になるかを熟知していたかもしれないが,マッケンジーはまだその重要性を認識していなかった可能性がある。最初はオーガスタの北西郊外に隠れていて,見つけるのが難しい場所だった。周囲に何もない2本の小さな柱があまりにも大きく成長した車道を示し,それはまるで水なしで洗車に入るようなものだった。これが Fruitland Nurseries だったが,10年間の大部分は休眠状態だった。

365エーカーの敷地はもともと1854年に藍のプランテーションとして設置されていたが,ベルギーの貴族 Louis Matheiu Edouard Berckmans が3年間,国内外向けにそこにエキゾチックな果樹と開花低木を育てた。それら木々が最初のプランテーションの家の白い木製ベランダから見えて立っていたので,ゴルフを最初に考えたのは,その土地をゴルフリゾートにしようと1925年に買収した J. Perry Stotz 准将だった。しかし彼はプロジェクトを始める前に破産し,そして1931年に,ボビー・ジョーンズとクリフォード・ロバーツ,そして投資家グループがその土地をを7万ドルで購入した。なのでオーガスタは初めは青く,そして色づき,最後は緑に落ち着いた。

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マッケンジーが最初にこの非常にうねる風景を目を向けたときに,彼が実際に何を考えたのかを知ることはできない。キャンバスが進むにつれて,もっと良かったかもしれない。丘の脇に良いコースを作ることは決して容易ではない。素晴らしいコースを作ることは,天才のタッチを要する。しかし彼はまた,ジョーンズが賢く創造的な人であることを知っていた。ジョーンズが可能性を感じていたのなら,きっとそこに可能性があるに違いない。ふたりが会ったのは午前11時。おそらく水差しの中にアイスティーがあったが,イングランドの起源を持つスコットランド人が,あるいはスコットランドの起源をもつイングランド人でさえもが,冷たいお茶というアイデアを気に入ったかどうかは定かでないが。マッケンジーは1870年生まれ。James Braid や Harry Vardon と同い年。JH Taylor より1年年長,Donald Ross より2年年長である。

アリスターはアレクサンダーの洗礼名を受け,グラスゴーの家系のルーツを持つ母と,スコットランドのハイランド地方出身の父のもとに生まれ,ウェストヨークシャーのリーズの近くで育てられた。だから彼は,イングランド系スコットランド人である。お茶の有無にかかわらず,ジョーンズはおそらくこの名医に施設のガイド付きツアーを提供する前に,少しの時間を無駄にした。著名なアメリカの作家 Herbert Warren Wind は,クラブハウスから長い丘のふもとで対面したふたりが,のちに有名な13番ホールになる自然の円形競技場を発見した驚きについて,語っている。 オーガスタはとにもかくにもルーティングであり,アーメンコーナー(Warren Wind の発明でもある)は逆向きに造られていた可能性があるのだ。

全体的なレイアウトに関してジョーンズがかなり多くの意見を持っていたと主張する人たちがいるが,David Owen の著書『The Making of the Masters』の中で彼は,マッケンジーがルーティングを思いつき,マッケンジーがグリーンの位置と形を決め,そしてマッケンジーがバンカーを配置したと明言している。「ギャラに関してはジョーンズの方が多かったかもしれないが,彼の役割はジュニアアソシエート程度のものだった」と Owen は記している。

ピンの配置によってはオーガスタのグリーン周辺に非常に多くの「立入禁止」のエリアがあるという事実が,それを証明する。実際,すべてのホールのグリーン上で,私たちのほとんどが3パットするような地点がある。ルーティングが,オーガスタの最も独創的な側面。これを考えてみてほしい。つまり,どのふたつのホールも同じ方向を向いておらず,フロントナインのすべてのホールがその直前のホールと違うパーであることを。10番と11番,17番と18番だけが,連続する2ホールで同じパーを持つのだ*1

最終的な成功に求められるショットバリューは,高い。つまりそれが意味するのは,悪いショットが罰せられる以上に,完璧にコントロールされたショットが報酬を得られるということ。勇気を持つものがオーガスタを制するが,報酬を得るためにリスクを取るには,十分にいいプレーをする必要がある。すべてパー5ホールは(もしかしたら8番を除いて),より保守的なゲームプランがまだ成果を得られると知っているにもかかわらず,ゴルファーによりアグレッシブに攻めるように誘惑する。それは,あらゆる局面で質問を投げかけてくるコースであり,そしてどの戦略も必ずしも正解とはいえないコースである。戦略家の夢。

ジョーンズとマッケンジーとの出会い

ボーア戦争に従事した医学博士マッケンジーが,どのようにしてオーガスタの仕事を手に入れたかは,はっきりしない。彼がボビー・ジョーンズとどう最初に出会ったのかも,同様。この2点目については,鍵はセント・アンドリュースにありそうだ。ジョーンズは1921年に最初にセント・アンドリュースをプレーしたが,あまり好まなかった。1926年にウォーカーカップで再び現われたときに,おそらくオーガスタについてマッケンジーと話したという話がある。その3週間後,全英オープンが Lytham で開催されたとき,マッケンジーはギャラリーとして,ゴルフ作家でジョーンズの親友である OB Keeler と歩いていた。

確かに,1926年はマッケンジーにとって大きな年だった。彼は1月にニューヨークを訪れ,2月に Cypress Point の建設を依頼された。彼は3月に帰国したが,その後9月にオーストラリアに出航し,そこで Royal Melbourne の West Course の計画を立てた。

これらの関連性を見てとてるのではないだろうな。Melbourne と Cypress Point はゴルフコース設計のエリート層の中での象徴的なランドマークとなり,オーガスタとともに,多くのゴルフコースランキングで世界トップ10入りをした。ジョーンズが Cypress Point でプレーして,Pebble Beach で行なわれた US Amateur のマッチプレーでセクションで衝撃的な敗北を喫したとき,彼は即座にデザインに感銘を受けた。その後すぐに,他のマッケンジー設計コースで絶賛されている Pasatiempo でプレーし,再び大感銘を受けた。

1927年にセント・アンドリュースで開催された全英オープンで,ジョーンズは彼の新しい「友人」の目の眼の前で連覇を果たし,マッケンジーはそれから1920年に出版された彼の本『Golf Architecture』に署名を入れてを送った。彼らは同じ設計哲学を有していることが分かったので,オーガスタに関しては基本的な作業はその時点で大半が完了していたと考えても差し支えないだろう。

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医学の道からゴルフの道へ

アリスター・マッケンジーは20代のころ,家族の伝統に半ば従うかたちで医学の道にいたが,しかし戦争がそれを中断してくれたおかげで,彼は自分の将来が他の所にころがっていることに気づいた。彼のコース建築への関心は,1907年にリーズ近郊の Alwoodley クラブが設立されたことで,爆発した。彼の設計計画は,コンサルタントの Harry Colt によって賞賛され,そのふたりはマッケンジーが主導的な役割を果たすかたちでプロジェクトが進められた。

彼の最初の単独作品は1910年にオープンした Moortown で,そしてそれから第一次世界大戦の始まりまでのあいだに,マッケンジーはこのヨークシャーの片隅で多くの花を咲かせた。彼は以下のコースの設計を手がけるかそれに関わった。Harrogate,Headingley,Halifax,Horsford,Scarborough South Cliff,Darlington,Wakefield,Roundhay Park,Saddleworth,Reddish Vale,Leeds,Garforth,Dore & Totley,そしてイギリスが大戦に参加する3日前にオープンした Oakdale。彼の評判は『Counry Life』誌のおかげでより多くの人に広まった。そこでホール設計のコンペが行なわれ,マッケンジーが勝ったのだ。彼は想像上の420ヤードのパー4を作成。それはゴルファーの技量とその日の天候状況に応じて5つの違ったやりかたでプレーできるものだった。

では,マッケンジー設計コースの特徴とは? 多くの人はアンジュレーションのある大きなグリーンに言及するだろうし,あるいは芝の「舌」が形状の対称性を崩す華やかなバンカーついて話す人もいる。しかし実際には,なにかひとつの特徴をとらえて「これが古典的なマッケンジーコース」と言うのはなかなか難しい。というのも,彼の場合は与えられた土地がコースのスタイルを方向づけるから。彼は,おそらく「マッケンジーグリーン」という言葉が由来するところである,グリーン上の大きなマウンドを取り除いて「平らにする」ことを控えた最初の設計家のひとりだった。彼はかつて電車に乗っていて,Hoylake のゴルファーが友人にこんな話をするのを耳にした。「われわれはあの悪魔のようなマッケンジーグリーンを手に入れたと思うね」。

マッケンジーはそのゴルファーに言った。「失礼,私はマッケンジー博士だが,あなたが非難するコースを見たことも聞いたこともないのである。私が知りもしないグリーンに対して,私にどのような責任がありますかな」。

1926年にマッケンジーによって設計された Cavendish*2 のメンバーであり,Royal Lytham の元クラブプロの Eddie Birchenoughは,マッケンジーグリーンを擁護してこう言った。「彼のデザインはグリーンコンプレックスに基づいている。あるものは厳しい傾斜があり,またあるものはフラットである。それらは通常,マウンドやスロープやバンカーによってガードされており,フェアウェイの特定の部分からのたったひとつの狭い入口がある。ティーからこの特徴を作るために,彼はフェアウェイの幅を40ヤードか50ヤードにしたが,そのうちでアプローチショットが簡単になるのは10ヤードほどの幅しかない。何年もの間,オーガスタはラフがないことを批判されたが,それを批判するのはそのデザインの機敏を理解できない人たちによってであった。今日でも,フェアウェイの端の刈高は少し変えられているが,ボールからスピン量を減らすには十分なほどの長さである。」

すべての設計家には自らの取り組み方を規定する規則や原則のリストがあるようだし,マッケンジーもその例に漏れない。事実,著作の中で13のガイドラインを列挙している。それらの多くはトリッキーなものではなくて,たとえば,高低差がきつすぎずとか,ブラインドショットはできるだけ少なくとか,冬でも夏と同じようにプレーできるとか,各ホールが独自の特性を持つとか,すべてを自然に見せるとかなのだが,たぶんちょっと興味深いのは,雷のときに備えて次のティーは前のグリーンよりも少し離れた場所にすべし,というもの。彼はロストボールを探すのを嫌悪していたので,ラフはできるだけ短くしたのだが,もし1999年の Carnoustie を見ていたら憤死していたに違いない。マッケンジーは「ふたつの9ホールのループ」を好んでいたし,大半のホールは2ショッター*3であるべきで,少なくとも4つのパー3ホールがあるべきだと感じていた。

そして,こういうものもある。「ゴルフコースは,ビッグスコアを出すハイハンディキャップのプレーヤーもラウンドを楽しむことができるように整えられるべきだ。言いかえれば,初心者がバンカー脱出でストロークを失い続けるような嫌な思いを続けてしないようにすべきである。ハザードを避けるために大きな迂回をしたことでストロークを失うようなかたちで,設計はなされるべきだ」。このように,熟練度の低いゴルファーは,屈辱と戦うのではなく,自らのハンディキャップを相手に戦うのである。マッケンジーが望んでいたのは,ゴルファーがゲームプランをもってコースに挑むことであり,多くのアマチュアは目の前にあるチャレンジを間違った方向から捉えていると感じていた。「ほとんどのゴルファーは,ハザードの真の目的を完全に取り違えている。大半の人はハザードを,悪いショットを罰するものだと考えている。しかし本当は,ゴルフというゲームをより面白くするものなのである」。

マッケンジーは1931年に,Pasatiempo*4 の6番グリーンのすぐそばに自分の家を作った。パジャマのまま出かけて遊べるところが欲しかったのだ,という人もいる。しかし彼は,全裸水泳のゴルフ版を試すチャンスはほとんどなかった。10年ほどのあいだに無名の存在から世界的な設計家になった男にとって,その最期はあまりに速く予想外であり,衝撃的とさえ言えた。

最期

マッケンジーはは1934年のスコットランドでの大晦日の祭典の最中に,心臓発作で亡くなった。彼は1月6日まで持ちこたえたが,彼の2番目の妻ヒルダいわく,「昼食をとっておしゃべりをし,部屋の片付けをしているあいだに,彼は突然あえぎ,そして死んだ」。マッケンジーの終焉は衝撃と狼狽を引き起こしたが,同時にオーガスタとっては問題解決の手助けとなった。彼ら彼のギャラである10,000ドルを払っていなかったのだ。1929年に大恐慌が始まった直後にクラブは開設され,30年代初頭に財政破綻に直面した瞬間があった。オーガスタは1933年1月に正式にオープン。その翌年にマスターズが初開催されることとなっていた。

今年の4月に,マスターズという大会がが年の最初のメジャー大会としての83回目の開催を迎えるという考えは,当初は一笑に付されていた。オーガスタは,その設計者から請求されたより見栄えのいい金額はもちろんのこと,そのスタッフの毎週200ドルの賃金請求書をまかなうためのリソースもほとんど持っていなかった。自らの手紙に返事がなかったとき,マッケンジーは請求書を真っ二つにし,それからクラブにこんな言葉を投げつけた。 「もう我慢の限界である。去年の6月以来,誰も私に1セントすら支払っていない。私たちはすべてを抵当に入れた。このみすぼらしい状況を脱するために,500ドルを私に支払ってくれることは可能であろうか?」

マッケンジーは最終的に,亡くなる前に2000ドルほどを取り戻したと考えられているが,こんにちのオーガスタナショナルの名声を考えれば,それはわずかな額だといえるだろう。オーガスタは世界中でゴルフが行われる場所としては間違いなく最も尊敬される場所である。自然に対して少しオールド・トム・モリスが鋤を入れた,セント・アンドリュースを除けば。つまりは,マッケンジー対自然という構図になるが,マッケンジーの最大の武器は自然だと多くの人は言うだろう。彼は予想外に亡くなり,貧困に陥っていたかもしれないが,ゴルフ界での彼の歩みは,彼の存在が決して忘れられないことを確たるものとした,足跡を残している。

*1:フロントナインのパーは順に4-5-4-3-4-3-4-5-4。バックナインは4-4-3-5-4-5-3-4-4。

*2:イングランド中部 Buxton にあるゴルフコース。私の体験記はこちら。イギリスゴルフ #109|Midlands遠征|Cavendish Golf Club - Linkslover

*3:2回のショットでグリーンに乗せられるホール。普通はパー4だが,パー3で2ショッターというのもありえる。

*4:カリフォルニア州 Santa Cruz のゴルフコース