Linkslover

I want to be a window through which Japanese golfers can see what’s happening outside. TPI G2/P2.

Bethpage Black を設計した本当の男|Golf Digest

本来なら2019年のPGAを前に訳出すべきでしたが,やっと完成しました。

Bethpage Black コースを設計したのはティリングハスト(A.W. Tillinghast)だと世間的には言われてますが,本当はそうじゃなかったという話。もともとは2002年の Golf Digest 誌に掲載された記事だそうです。

ソース

The Real Man Behind Bethpage Black | Golf World | Golf Digest by Ron Whitten, 9 May 2019

拙訳

Joe Burbeck は改革運動を数年前にあきらめていたが,Bethpage Black が2002年の全米オープンの会場になると知り,再び立ち上がった。彼は本誌に手紙を送り,記録を訂正してほしいと嘆願した。彼は強く主張する。Black Course は,かの有名なゴルフコース設計家 A.W. Tillinghast の手によるものではなく,長い間 Bethpage State Park の管理人であった彼の父 Joseph H. Burbeck によって1930年代に設計されたのだと。

どんな証拠をお持ちですか? と我々は訪ねた。

「証拠はないんです」と,Joe は告白する。「私はその場にいたのですが,いかんせん小さい子供でした。父の仕事場に入っていった記憶があります。そこには青写真がいたるところに散らばっていて,父は図面台にいました。父がクルマに乗せてくれて,コースのクルーたちを訪れに行ったのを覚えています。私たちはそこに住んでいました。父は毎日そこに出かけていきました。それが父の仕事だったのです」。

f:id:golf103:20190515181807j:plain
Joseph Burbeck

「それ以外は,家族の言い伝えです」と,彼は付け加えた。「大半は私の母 Elizabeth から,小さいころに聞かされました。父が得るはずの評価を得られていないことを,母はとても苦々しく思っていました。私がいちばん覚えているのは,母が言ってた『Tillinghast の名前を家の中で口にしないで』ということです。Tillinghast が誰か,私は大きくなるまで知りませんでした。」

「父はこの件について,多くを語りませんでした。彼はとても個性的な人でした。父からそれを聞き出そうともしませんでした。」

現在71歳の Joe Burbeck。その顔には,ロングアイランド湾での数十年に及ぶ競技セーリングの跡が刻まれている。マンハッタンの広告代理店を退職し,第二の人生を過ごしている。ニューヨーク州 Rye にある彼の自宅近くで行なわれた昨年秋の面会で,彼は詫びた。父の書類を何も持っていないことについて。たぶん,Bethpage か州立公園の本部にでもあるのだろう。彼が要する証拠は,そのへんにある。

Joe Burbeck が正しいことが判明した。彼の父が Bethpage Black を設計した。その証拠はずっと存在していた。誰もそれをわざわざ探り出そうとしなかっただけだ。1959年に出版された『Long Island State Parks』という書物*1に,それが記されている。「失業対策プロジェクトとして造られた4つのゴルフコースは,公園管理人 Joseph H. Burbeck の監督のもとで行なわれた」と。「国際的に知られている A.W. Tillinghast が,コンサルタントとして加わった」とも。

Tillinghast がコンサルタント役に身を引いた? Tillinghast がすべてのディテールに目を配ったという伝説を受け入れるのは,容易であった。Black Course はあまりにも素晴らしく,それが無名の人物によって設計されたとは考えづらいのだ。

伝説の男

Bethpage は実際には,Tillinghast より遥かに偉大な Robert Moses から始まった。たぶんアメリカ史の中で,選挙で選ばれたことのない人の中でもっとも影響力のある人物である Moses は,ニューヨークの「Master Builder」となった。州のあちこちにあるダムと橋,そして高速道路と州立公園の大部分,さらに2回のニューヨーク万国博覧会と国連ビルの建築を手がけた男だ。

1920年代中盤,ニューヨーク州知事の Al Smith を説得して,高速道路と公園は選挙の票集めに有利だと説き伏せたことで,Moses は最初のその影響力を確立した。Moses はそのようなプロジェクトを開発するための州機関を創設するための法案を作り,州議会でそれを通させ,自ら機関の長となって,プロジェクトの資金を創造的なやり方で集めた。

エアコンとまともな道路が普及する前の時代,Robert Moses はミドルクラスの納税者を引き連れて,毎週末ビーチを訪れた。知事も市長もあえて彼に歯向かわず,Moses はたいそう人気を集めた。Moses には大きなビジョンがあったが,心は小さかった。彼は長屋の建物をすり抜け,パークウェイの高架をバスが使えないほど低く保ち,ハーレムで最も原始的な遊び場のみ提供した。

Moses の役割のひとつは Long Island State Park Commission のプレジデントで,彼は38年にもわたって独裁者のようにその座に居座った。彼は自らの周りを優秀なエンジニアと設計家で囲み,庶民のために善行をしたいという彼の願望を共有してもらい,彼らで薄給で働かせた。彼は猛烈に働き,運転手付きのクルマの中でミーティングを行ない,その隣には順番を待つ人が乗っている次のクルマが待っているという始末だった。彼の従業員のひとりだったのが,Joseph H. Burbeck。1898年に産まれた Burbeck は Massachusetts Agricultural College で造園学の学位を取得し,中西部のゴルフコース設計に携わった。Burbeck が公園委員会に雇われたのは,1929年5月23日。ロングアイランド南にある Jones Beach に Moses が最初に手がけた州立公園の更衣所のあいだにピッチ&パットコースを設計するためだった。コースが会場したのは1931年。公園にあるものはすべて海のモチーフを基調とし,ゴルフコースもすべてのホールで航海に関するもの,例えば錆びたイカリやボートの竜骨,海から引き上げられたラム酒の樽などを配置せよという,Moses の主張に沿ったものだった。

同じ年,Moses は鉄道界の大物 Benjamin Yoakum から,1368エーカーの土地を詐欺のような手口で購入した。その中には,プライベートコースの Lenox Hills Country Club もあった。1924年に設計家 Devereux Emmet がデザインしたものだ。そのコースは Bethpage Golf Club と名前を変えて,1932年4月にパブリックコースとしてオープンした。1日2ドルのプレーフィーだった。Burbeck は妻と息子をクラブハウスに呼びよせ,コースの管理をするとともに,次の大きな Moses のプロジェクトの準備をした。それは,その土地を一大ゴルフ複合施設 Bethpage State Park へと作りかえることだ。それにはあと3つのコースを作る必要があったし,クラブハウスも拡張して新たにする必要があった。それらすべてをパブリックなものとする。Moses は「人々のカントリークラブ(the people's country club)」となるだろうと,喧伝した。

これは,大恐慌から3年後のことだった。不景気は国中を覆っていた。Bethpage は夢物語のように思われていた。税金の補助など一切ないのだ。しかし Moses は債券を発行して土地を購入し,失業者対策としてコースとクラブハウスを建築することを提案した。Moses は法制度については気にかけていなかった。500人日以上を費やして,新コースのひとつ(Bethpage Blue)は1933年の夏に始まった。土地の所有者は1934年5月まで変わっていなかったのだが。

f:id:golf103:20190515181832j:plain
Robert Moses

Tillinghast 不遇の時代

ショーマンの大御所として,Moses は話題の巻き起こし方を知っていた。ゆえに彼は,A.W. Tillinghast をそのプロジェクトのコンサルタントとして採用した。Tillinghast が雇われたの1933年12月30日。Blue / Red / Black の3コースの設計が完了した数ヶ月あとのことだった。その契約で,日給50ドルを最長15日に渡って受け取ることになる。

このような額のフィーでは,Tillinghast は普通は仕事は受けない。しかし,ニューヨークで Winged Foot と Quaker Ridge を,ニュージャージーで Baltusrol と Ridgewood を,そしてカリフォルニアで San Francisco Golf Club を創った天才も,投資の失敗と飲酒の悪癖で首が回らなくなっていた。ニュージャージーの Harrington Park にある自宅を維持することもままならなく,新コース設計の話もやってこない。Tillinghast は1933年初頭に,Golf Illustrated の編集者の職に就いていた。

彼が Bethpage State Park の場を訪れたのは,1934年1月。そして600人が働くそこでの光景を,2月号の記事で取り上げた。彼は4月にもまた記事を書き,「これらコースの計画のコンサルタントとして選ばれたことを光栄に思う」と記している。さらには,その土地は Pine Valley を思い起こさせるとも。また,後に Red Course の4番と5番ホールになる場所の土地についても記している。Black Course については一言も残していない。

彼は Golf Illustrated の10月号で再び,Bethpage を取り上げた。今度は,Burbeck が既存のコースのために立ち上げたキャディ団についてのみ。

Bethpage での作業は,1934年を通じて行なわれた。古い Lenox Hills コースに2ホールが追加され,Green Course と名前を変えた。これで,新しい4コースはすべて新しいクラブハウスからスタートしてそこに戻ってくるかたちになる。Blue と Red の2コースはその年の秋に芝が植えられたが,Black の建設は翌年の春まで持ち越しになる。公園の最高責任者の新居は,現在の Black Course の14番グリーンの近くに建設された。そこで,Joe Burbeck は育ったのだ。

1934年6月,Tillinghast はフィラデルフィア近郊の Merion で開催された全米オープンに姿をあらわした。新進気鋭の設計家ロバート・トレント・ジョーンズが話しかける。Tillinghast が言うには,彼はもうこのビジネスにうんざりしていて,新しいコースを作ることには興味がないという。

11月。Tillinghast とその妻はカリフォルニアに向かい,友人たちと過ごした。1935年2月に戻ってきたとき,税務署の職員が家に押し入っていた。間もなくして,Tillinghast は雑誌編集者の職を失った。そしてまた,Bethpage のプロジェクトからもリストラされることになる。1935年4月18日のことだった。その翌日,Robert Moses と,Burbeck を含む取り巻きたちは,レポーターたちを連れて Bethpage のお披露目を行ない,その翌週に Blue Course が開場した。

貧窮した友人を救うため,PGA of America のプレジデント George Jacobus は,Tillinghast を雇った。PGAメンバーである設計者のコンサルタントとして,彼らが設計したコースの改善策を検討させるためだ。8月10日,Bethpage ではクラブハウスと Red Course が公式にオープンし,Robert Moses が施錠したクラブハウスの南京錠を,4歳の Joe Burbeck が解錠した。Tillingast はその場にいなかった。彼は妻とともにすでに旅路につき,その後2年間に渡るコンサルテーションの仕事に向かっていた。Tillinghast はたまにニューヨーク地域に戻ってはきていたが,Bethpage に立ち寄ることはなかった。1936年7月2日の Black Course のグランドオープンのときもそうだった。その日の新聞は,Robert Moses その人と,彼が行なった失業者対策としてのコース建設の意義とを取り上げたが,誰がコースを設計したかについては何も触れられなかった。

Black Course が他の Tillinghast コースに似ていないというのは,陳腐だ。なぜなら,彼の天賦の才能は,「独自のスタイル」というものを持たなかったことに垣間見えるからだ。とはいえ,そのバンカー群は強烈で,彼のどのコースのバンカーからも完全に脱却している。フラットで楕円形のグリーンは,Tillinghast のパッティングサーフェスとはまったく別物にしか見えない。むしろ Jones Beach のピッチ&パットコースのグリーンに似ている。

決定的証拠

1937年8月,Tillinghast は初めて Bethpage Black について寄稿し,PGA Magazine に掲載された。そこで彼は,Joseph Burbeck をBlack Course の基礎的なコンセプトをつくったと記している。

「さて,これらレイアウトのひとつを過度にシビアだという線にそってつくるのは,Burbeck のアイデアだった。Pine Valley と比類するような,プレーヤーの技量を試すコースをつくることは,彼の野心から生まれた。そして私はPGAの仕事で国中を渡り歩いていたので,開場以来 Bethpage Black はプレーできていないのだが,ベストプレーヤーたちの報告を見るにつけ,Black は十分に牙のあるコースであろうと結論づけられるのではないだろうか」。

次の数行からは,彼が Black を少なくとも一度は訪問したことがうかがえる。4番パー5について,細かく記載しているのだ。「グリーンの配置と設計にあたって,それは右からの最も正確なアプローチによってのみ得られるのだが,私はこう告白せざるをえない。私は少しビビってしまったと。振り返って,このグリーンを攻めるためのポジションに着くための突き刺すようなセカンドショットが取らざるをえない,ハザードに満ちたルートを見たときに」。

彼が物理的に振り返ってフェアウェイを見下ろしたのか,あるいは彼がオリジナルの設計図を見たときのことを単に振り返っただけかのかは,分からない。好意的に解釈するならば,彼は実際に Black Course が作られた土地を歩き,4番グリーンの配置と設計に関わったと言えるだろう。しかし実際には,Bethpage の4コースは彼が着任する前にルーティングされていたし,Black Course の建設が行なわれていたときに彼は,アメリカ中を渡り歩いていた。

どうして彼は,それほどまでに Bethpageに興味を示さないのか? その答えは,古くからのライバルである設計家ドナルド・ロスに1942年初頭にしたためた手紙の中に見いだせるかもしれない。その死のわずか数ヶ月前,忠実な共和党員であるTillinghast は,失業者対策としてのプロジェクトを非難していた。いわく,「……W.P.A. [Works Progress Administration] と the P.W.A. [Public Works Administration] の広大で破壊的で基本的に馬鹿げている努力。その考えにメリットもなくはないが,それ以上の害悪が結果に出ているのは疑いない。例えば,ああ神よ,それらすべてを見てみれば,善意の金が浪費され,素人の作り物が生み出されていること,後悔この上ない。神に感謝したい。これらすべてに関わらざるセンスを持ち合わせていたことを。なんと罪深いことか」。

息子の帰還

Joseph H. Burbeckは,Bethpage公園の最高責任者として,1964年までとどまった。彼がコネチカットの老人ホームで亡くなったのは,1987年1月のこと。1950年中盤には,BurbeckはBethpage に5番目となる18ホールのコースをつくった。それは,既存の1コースを分割し,現在のBlueとYellowをつくるものだった。そのために,Robert Moses はゴルフ設計家 Alfred Tull をコンサルタントとして雇った。

「当時は私も十分に成長していたので,何が起こっていたかは理解できていたよ」と,Joe Burbeck は語る。「父がプランを紙に落としているのを見た。Tull がそれらをレビューすることはめったになかったし,18番の改善策をひとつ提案するだけだった。大したゴルフホールではないと彼は言ったけどね。それが何を意味するかは知らないけど」。

昨冬,Joe Burbeck は10年以上ぶりに Bethpage を訪れ,公園のディレクターである Dave Catalano を紹介された。

「私はあなたの家に住んでいるんじゃないかな」と,Catalano は言った。「塗り直したほうがいいですね」と,Joe が答えた。

Catalano は礼儀正しかったものの,Joe の主張は疑っていた。「Joseph Burbeckはとても素晴らしい人だったと思いますよ。でも本当に彼が Black Course を設計していたら,彼の名前はプランに載っていたはずです」と,Catalano。「しかし実際は,彼の名前はプランにはありません」。

それはその通りだ。しかし,A.W. Tillinghast の名前もそこにはないのだ。Catalano が言及しているのは,Bethpage の「開発プラン」であって,これは景観設計家の Clarence Combs が1934年に準備したものだ。その時,コースのふたつはすでに建築中であった。そのプランは,公園全体のさまざまな要素に触れている。道路であったり,避難小屋であったり,ピクニックエリアであったり。ゴルフボールもそこに含まれている。これは,当時のBethpageのプランとして唯一現存するものだ。実際のゴルフコースの設計図は,数十年前に廃棄されている。

彼らの会話の途中で,キャディボーイが手書きされた板の切り抜きをJoeが Catalanoに見せた。Bethpage State Park のシンボルになっているものだ。このような板がすべてのコースのすべてのティーに飾られていたんですよ,とJoe が言った。現在は鉄のものに変えられてしまっているが。

「この坊やがどこから来たものなのか,私たちは分からないんですよ」と,Catalano が言う。「私が知っているのは,これが当初からクラブのロゴであったということだけです」。

Joe Burbeck は微笑んだ。「これも私の父がデザインしたものなんです」。