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タイガー・ウッズと(世界を支配しそこねた)ナイキのボール

もうすぐ「ペブルビーチでの全米オープン」ですが,前回それが行なわれた2000年,タイガー・ウッズはそこでナイキの新しいゴルフボールを使い,15打差で勝利しました。これはそのボールにまつわるエピソードです。

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ソース

Tiger Woods and the golf ball that (almost) changed it all by Jonathan Wall, 29 May 2019

拙訳

ある日曜日,ケル・デブリン(Kel Devlin)がオレゴン州ポートランドにある自宅でディナーの席についたとき,電話が鳴った。その相手はタイガー・ウッズ。「今週”僕のボール”が手に入ってたら,5打差で勝ってたよ」。デブリンはウッズがそう語ったのを覚えている。その31日後,ウッズは「彼のボール」を手にし,そしてゴルフの記録を塗り替えた。

2000年5月のその会話の前,デブリンはウッズがそのプロトタイプボールについてそのように語るのを聞いたことがなかった。当時 Nike Golf のスポーツマーケティング部門のグローバルディレクターだったデブリンは,タイガーとともに9ヶ月を過ごして「Nike Tour Accuracy」の開発に身を捧げた。それは,タイガーまさにその日の最終日に「63」をマークした「Titleist Professional」も含めて,それまでに使っていたどのボールとも異なるものだった。その派手な数字にもかかわらず,タイガーは Byron Nelson Classic で勝者 Jesper Parnevik に1打及ばなかった。全米オープンは1ヶ月後だというのに,「僕のボール」はまだプロトタイプのままだ。

「火曜の朝にドイツで会えない?」 ウッズは電話越しにそう言った。

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2000年の Byron Nelson でタイガーが使った「Titleist Professional」は,当時PGAツアープレーヤーの多くが使っていたものだった。リキッドコアで糸巻き。「Tour Balata」に似ているものの,エラストマーカバーのおかげで「Tour Balata」より耐久性に優れている。「Tour Balata」では,ツアープレーヤーたちは3ホールごとに新しいボールに変えていたのだ。

「Nike Tour Accuracy」のプロトタイプは,その開発を促していたプレーヤーのように,それまでのものとまったく異なるものだった。3ピース構造で合成物質を混ぜた鋳造のラバーコア,カバーはウレタン。プロトタイプの段階では,最終目標はツアープレーヤーが慣れ親しんだ打感とパフォーマンスとを,糸巻きボールより遥かに低スピンとボールスピードで実現することだった

テストの段階で,タイガーは「Tour Accuracy」の数々のバージョンを打ち比べ,その感触を事細かに丁寧に,デブリンと「ロック石井」こと石井秀幸*1に伝えた。ロック石井はブリヂストンのエンジニア。実際にそのボールに生命を吹き込んだ人物である。(タイガーが2019年初頭に語ったように,彼のナイキボールを18年近くに渡ってつくっていたのはブリヂストンだ)

デブリンと石井はプロトタイプをスーツケースに入れて行き来し,数えきれない日時を過ごした。ときにはバケーションを中断してまで,タイガーが時間のあるときに最新バージョンのプロトタイプを届けた。

「彼とテストするのは最高だったね」とデブリンは語る。「タイガーはすごいんだ。ドライバーのテストをしてて,『フェースのちょっと下で打ったから,たぶん2600rpmじゃないかな』っていう。計測器を見ると,2570だったりするんだ」。

驚くべきことではないが,ウッズは与えられたボールに対して別世界のようなフィードバックを返してくる。あるとき,タイガーは同じ条件で打ったときのプロトタイプと Titleist のボールとのかすかな音のち外に気づいたと言う。周波数解析をすると,ウッズの言っていることが正しいと分かった。4000ヘルツ付近で,「Tour Accuracy」では再現できない音のピークがあった。ウッズの耳にかなうために,ボールのカバーに小さな変化を加えざるをえなかった。

2000年初頭,カリフォルニア州 Newport Beach の Big Canyon Country Club で行なわれたセッションで,ウッズはプロトタイプをふたつのバージョンに絞った。ボールの強い弾道と10mphも増したスピード,そして風への強さに満足したものの,開発を急かしたくはなかった。10月まで開発を中断しようと,ウッズはデブリンに言った。

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「彼はボールを気に入っていたけれど,その時点でただ立ち止まった」とデブリンは言う。「2000年シーズンにそのボールを使うかどうか,わからなかった」。

ツアープレーヤーのブルース・デブリンを父にもつデブリン。父はニクラウス,パーマー,プレーヤーの「ビッグスリー」が跋扈する1960年代に,何度もメジャー大会でプレーした。春のハンブルクで行なわれる Deutsche Bank-SAP Open で開発を再開するというウッズのリクエスト。ウッズがプレーで使いたいという最終バージョンは日本にあるブリヂストンの工場にあったが,ときはすでに月曜朝だった。

デブリンはすぐに日本にいる石井に電話をして,その午後にボールを持って飛行機に飛び乗れないかと訊いた。デブリンが冗談を言っているのだと,石井は思った。

「死ぬほど本気なんだよ」とデブリン。「火曜の朝に1番ティーでタイガーに会うんだよ!」

デブリンは荷造りをしてポートランド空港に向かった。火曜日の朝,指定された時間にデブリンと石井は1番ティーに向かい,ウッズの長年のキャディ,スティーブ・ウィリアムズから温かい歓迎を受けた。

「お前らバカなの? こんなとこで何やってんの?」 ウィリアムズがこういったのを,デブリンは覚えている。

はるばるドイツを訪れた理由をデブリンを告げると,ウィリアムズは一言だけ返した。「嘘つけ」。

ウッズが到着したとき,雨と風とか彼らの顔を一瞬吹き付けた。「Titleist Professional」をドライバーで打ったタイガーは,左から右の風に乗ってボールは右のラフに入った。次に「Nike Tour Accuracy」をティーアップしたタイガーは同じラインに打ち出したものの,ほんのわずか,たぶん5ヤードだけ動いて,フェアウェイ中央に着弾した。本番環境でボールの実力を証明できた,デブリンにとっては象徴的な瞬間だった。

Memorial Tournament に出場するためアメリカに戻ったタイガー・ウッズ。週前半の記者会見で,タイガーはボールがまだ開発段階にあることを認めたが,実戦で使うのには十分なほど満足していることを認めた。「完全に満足するのに必要なのは,試合で使うことだけ」と,タイガーは述べた。

その週末,タイガーは会場の Muirfield Village を5打差優勝という称号とともにあとにした。PGAツアー19勝目だった。「Nike Tour Accuracy」とともに2大会に出場したウッズは,ボールの出来にほぼほぼ納得した。唯一の気がかりは,風のある条件の中での距離の判断と弾道のコントロールに関するものだった。

「彼はそのボールで全般的に飛距離が伸びた」と,匿名を希望するソースは語る。「ロングアイアンとミドルアイアンで7ヤード,ウェッジで3ヤード」。そのボールは風に強かったが,タイガーは一環した弾道と飛距離に慣れ親しんでいた。

2週間後,ペブルビーチでの全米オープン。タイガーは初日からアクセル全開で,「65」と他の集団を引き離した。翌日は風が吹き荒れてフィールド全体が苦しむ中で,ウッズは正確なショットを打ち続けた。36ホールを終えて6打差の首位,最終日を終えて15打差での優勝。9つの分野で全米オープンの新記録樹立あるいは首位タイとなり,そこからメジャー4連勝を果たした。それらすべては,この新しいボールで成し遂げられた。

その週,タイガーが抱えていた唯一の問題は,その時点では気づかれていないものだった。土曜日の朝に霧のせいで遅れていた第2ラウンドの18番ホールのティーショットを打ち終えたあと,最後にバッグに残っていた「Tour Accuracy」をウィリアムズがタイガーに手渡した。その前の版,タイガーはホテルの部屋でパッティングの練習をしていて,ボールを入れ替えるのを忘れていたので,コースに戻ったとき,たったふたつのボールしか持っていなかった。それに気づいたのはラウンドが終わったあとだった。ゴルフ史上最大の圧倒的パフォーマンスの中で,ウッズがいちばん危うかった瞬間である。

2000年のマスターズ,タイガーがドイツで「Nike Tour Accuracy」を正式に試合で使う1ヶ月前は,95のプレーヤー中59人が糸巻きボールを使っていた。その年,タイガーは9大会で優勝。2001年のオーガスタで「タイガースラム」が成し遂げられたときは,フィールドで4人を除くすべてのプレーヤーがソリッドコアのボールを使っていた。

2014年にタイガーがこう語っている。「僕の中でいちばん大きな変化は2000年。そのボールでメジャー大会4連勝して,そしてその後のことは周知の通り。糸巻きボールテクノロジーは,完全に消え去った。みんな変えたんだ。そのイノベーションの波の一部になれたことは,とても興奮することだった」

ゲートを最初に飛び出すことは,必ずしも成功を保証するものではない。特にゴルフ用具に関しては。もしそうだとしたら,Top-Flite の「Strata Tour」がフィールドを引き離し,マーク・オメーラが先頭に立っていたかもしれない。タイガーが飛躍する3年前にオメーラは Top-Flite のソリッドコアボールの恩恵を受け,1998年のマスターズと全英オープンを含めて7勝を果たした。彼が41歳のときだった。

ウッズの持っている名声とマーケットバリューほどのものを,オメーラは持っていない。オメーラがそれほど勝っても世界は変わらなかったが,タイガーの支配に世界が目を見張り,そして世界が変わった。

しかし,そのボールも商業的には然るべき程度に成功したとはいえない。デブリンによれば,タイガーの全米オープンでの歴史的勝利を最大限に活かして,Titleist のシェアを一気に奪いにいくのが目標だった。しかし,ナイキはボール製造を自社の工場では行なっていないため,需要に追いつく供給ができなかった。「ボールを市場に送り出すのに,2000年の10月かもしかしたら11月まで待たなければいけなかったんだ」と,デブリンは言った。

仮にボールがフルに製造されいてたとしても,Titleist は高い壁であったし,自身も高度に革新的な企業だった。ナイキが秋のセールスに向けて準備を進めているあいだ,Titleist も密かに5年をかけて Pro V1 を開発していた。

10月の第2週,Titleist のレップはラスベガスでの大会に,プロトタイプの Pro V1 を400ダースほど抱えて現われた。47のツアープレーヤーが即座に Pro V1 を試合で使い,それはゴルフ史において1大会で最も大きな用具変更となった。Billy Andrade が Pro V1 を使って,その大会を勝った。最初の数ヶ月で Pro V1 は圧倒的なモメンタムを獲得し,Titleist は2001年3月に予定していた Pro V1 の市販を2000年12月に早めた。「Nike Tour Accuracy」の将来は,これで打ち砕かれた。大衆が好むのは,PGAツアープレーヤーが使うものだからである。

デブリンはこう回顧する。「クソっ,チャンスを逃しちゃったよ」

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「Nike Tour Accuracy」にも,もちろんその時はあった。ウッズがメジャー大会4連勝を果たした数カ月後,デイビッド・デュバルは Nike のボールとクラブで全英オープンを制した。多くのゴルファーがタイガーと同じボールを使いたいと望み,そのおかげで Nike のボール市場におけるシェアは一時期二桁パーセントになったこともある。しかしそれでも Titleist を上回るのには十分でなかった。こんにちでも,デブリンは自分たちがボール界を支配できたはずだと振り返る。

「もし十分なキャパシティがそのときあって,スポーツマーケティングの仲間がいて,(Nike 創業者の)フィル・ナイトが後押ししてくれていたら…。もう4週間早く,Nike のボールを使いたいと望むツアープレーヤーたちにボールを供給できていたら…。」

Nike の20年に及ぶゴルフ用具の製造は,2016年に幕を閉じた。しかしデブリンと石井とウッズがドイツの1番ティーに立ったその瞬間,ゴルフに新しい波が押し寄せたその時であり,その余波はいまだに続いている。