Linkslover

I want to be a window through which Japanese golfers can see what’s happening outside. TPI G2/P2.

キャメロンパターに取り憑かれた少年の話|Nick Venson と SWAG

MyGolfSpy にこんな記事が出てたんですが,Swag Golf Japan はこれの和訳をするとは思えないし,MyGolfSpyの日本語サイトもやらない気がするので,自分がやっちゃう。パタージャンキーだった少年時代の話は面白いんだけど,ブランド立ち上げのあたりの話はちょっと宣伝臭がして,ちょっとがっかりしなくもない。あと,ちょいちょい挟んでいる脚注は原文にはなく,僕が加えたものです。

ソース

WHO IS NICK VENSON? by Chris Nickel, 15 April 2019

拙訳

これは,とあるパター中毒者についての話である。この病気は,われわれの多くにとって他人事ではない。それは1996年,ニック・ベンソンが13歳のときのこと。

その歳の子供の多くがそうであるように,ニックは野球カードとステッカー集めに熱中していた。しかし,ひとつのアイテムが彼の注意を引き裂いた。1992年のカルト映画『ウェインズ・ワールド』*1を思い出してほしい。ウェインは1964年モデルの Pre-CBS フェンダー・ストラトキャスターに取り憑かれ,こんな忘れられないセリフをつぶやいた。「It will be mine – Oh yes, it will be mine.(僕のものになるんだ。あぁそう,僕のものになるんだ。)」

ニックにとってのストラトキャスターは,スコッティ・キャメロンの Santa Fe パター,ガンブルー仕上げだった。客観的にいえば,それはニックの手の届くものではなかった。だからといって諦めるニックなどではなく,家の中や近所で小銭を稼ぎ,いつかそれを買いたいと願うのであった。それは『白鯨』のような強迫観念*2だが,はるかにハッピーエンドな物語だった。

死ぬほど欲しい何かを手に入れることは,ちょっと非現実的であった。ニックはそんな経験をそれまで一度もしたことがなかった。そしてそれがニックの情熱を燃やした。自分でも計り知れない,溢れ出る情熱。彼が分かっていたのは,スコッティ・キャメロンとそのパターについて,できる限りすべてのことを知りたいという欲望を,自分が持っているということだった。

知れば知りるほど,さらに心を注いだ。物理的にコレクションするだけでなく,それぞれのパターの微細にまでも。歴史,デザイン,特徴,そして仕上げ(フィニッシュ)。なぜあるバンパーはより丸いのか? フランジとバンパーとの理想的な幾何学的関係って? ソールの溝はどんな役割を果たしているのか? ニックは同時,専門用語に関しては正確ではなかったかもしれないが,そんな疑問で,彼は夜も眠れなかった。知れば知るほど,知るべきことがさらにあることが分かるだけだった。

彼の次のパターは,またしてもキャメロン,Newport Tei3。ベンソンはそれに手をくわえて,ビジェイ・シンが1998年の PGA Championship を勝ったときの Pro Platinum Plus のようにした。まもなく彼は,息子の正気を当然ながら疑う両親から500ドルを借りて,他のレアなキャメロンパターを購入した。ニック・ベンソンは病に冒されていた。その唯一の治療,あるいは対処法は,さらなるキャメロン。

コレクションは中毒的になりがちだが,ベンソンにとっては,それは趣味以上のものになった。彼がパターを学ぶとき,それを吸収するほどには情報を得なかった。ベンソンは発売日やモデル名を記憶して友達に誇示したり誰かをびっくりさせようなどというつもりはなかった。それは,無償の愛から生まれる副産物だった。情報は,ただただ彼の中に蓄積された。

ベンソンが合法的にクルマを運転できるようになったころ,彼はただのパターマニア以上の存在になっていた。彼はすっかりゴルフというゲームの虜になり,300ドル以下で,太陽が沈むまで地元のコースでゴルフをとことんプレーした。両親が朝ゴルフ場に彼を送り届け,夕食前に迎えに行く。その間,ベンソンと彼の仲間たちは,だいたい36ホールはプレーして,そして息抜きの時間はすぐさま,キャンディーバーと数ドルを,そして誇りを賭けたパッティングとチッピングの競争になった。

何かいつも新しくて変わったものをバッグに入れてくる少年として,ベンソンは評判を確立した。それは新しいパターのときもあるし,紫と黄色で目立つ UST Pro Force V2 シャフトのときもあった。それは当時,ちょっとしたことだった。

Malcolm Gladwell *3はその著書『Outliers』の中で,「1万時間ルール」(約3年半のフルタイムの仕事時間に相当)について述べている。つまり,あらゆる分野においてそれをマスターするためには,1万時間の意識的な練習が必要であるという話。ベンソンはこの数字を,高校を卒業する前に優に超えていたと思われる。彼はスコッティ・キャメロンのあらゆる事柄について専門家になっていたが,彼の知識の深さを理解するものは,彼も含めてほとんどいなかった。

インターネットが黎明し,チャットルームとブログが花開いた。その構造は@aolのメールアドレスと同じぐらい古くなったが,Bill Vogeney がキャメロン愛好家のための仮想ミーティングルームを Yahoo に開設した。ここを通じて,ベンソンは収集と学びとビジネスを,誰も彼の年齢を気にかけることなく行なうことができた。この匿名性の中,ベンソンはその知識を活かして活躍した。「私は上品に話して,典型的なティーンエージャーのようには振る舞わなかった」と,ベンソンは語る。彼は14歳か,34歳か,あるいは64歳だったかもしれないが,彼以上に賢い人間はいなかった。

彼はスコッティ・キャメロンに関する百科事典的知識を増やしつづけると同時に,コレクターのマーケットで経済活動にも没頭した。例えば,彼はある Cameron Classics モデルが日本で(そこでは額面以上のお金が平気で支払われる)とても人気があるが供給が足りないことに気づいた。いくつかのモデルはアメリカでは容易に手に入るので,簡単に金儲けができた。

パターを右から左へ流したことでえられたお金は,すぐさま再投資された。当然,さらなるパターへ。それは,ウォーレン・バフェットにも似た作戦。ベンソンの世界は,学業にあてる最低限の時間を除いて,コレクションを増やすことに当てられた。キャメロン収集家のたちのセミ・バーチャルなオンラインの世界では,彼の存在は神に近いものとなった。

とどまるべきか?

パターの世界は楽しかったが,そのままキャリアパスにはならず,ニックは大学に入った。多くの同級生と同様,ニックは学位の理論的価値は理解していたが,それでもって具体的に何をするかは特段の考えがなかった。彼はパター売買の副業を続け,2005年にはカリフォリニアにあるパター販売業者のエリートグループに加わった。そこで彼は Art of Putters の運営を手伝い,コンシェルジュサービスを提供して,レアでコレクションになりえてツアー使用のキャメロンパターに関わった。ニックは大学を退学し,西に向かってスコッティ・キャメロンに関する博士号を現実世界で活用した。ベンソンによれば,2005年にハイエンドでコレクションに値するキャメロンパターの最初の権威であると真に言えた人間は,3人しかいなかった。「Bill Vogeney,スコッティ・キャメロン,そして私自身。以上。」

伝統的な研究所や高等教育機関では見つけられなかった教育を,ニックは受けた。彼は熱狂して突き進む業界の内部事情を目にした。2005年にタイガーは涙した。メジャータイトルと無縁だった2年間に終止符をうち,マスターズと全英オープンを制して,地球上でナンバーワンプレーヤーの地位を再び手にした。タイガーいくところ,スコッティ・キャメロンあり。ウッズにとっての伝説の剣,Scotty Cameron GSS Newport 2 ほどに,アイコニックなパターは他になかった。

キャメロンと収集価値のあるモデルとツアーパターのマーケットは,青天井だった。『ウルフ・オブ・ウォールストリート』のどのシーンも,穏やかに見えるほどだ。

その後3年で,ベンソンはそれまでの10年と同じほどのことを学んだ。特に,コレクター心理と,何が彼らにパターに数万ドルを,さらに数百ドルをヘッドカバーとディボットツールとボールマーカーに使わせるのかについて。

しかしニックはLAになじまず,南カリフォルニアで家族を育てる気にもならなかった。そこで2008年に,彼は自らのルーツである中西部,シカゴに戻り,その教育を終えてジョブマーケットでの試験を受けるつもりだった。

大恐慌以来最大の金融危機が起きているさなかに学校に戻るなんてどうしてだと,多くの人が疑問に思うだろう。ベンソンにとって,それは単純な話だった。直前の3年間はいくつかの疑問に答えはしたが,ルーレットを回すことでは答えられない他の疑問も生まれたのだ。ベンソンは自らの直感に従う人間であり,それを頑固と呼んでも差し支えないだろう。結局,このようにして新しい冒険が始まった。

これをセレンディピティーと言うのだろうが,TheCameronCollector を立ち上げた Doug Hardman がベンソンに親しく,シカゴを拠点にしたパターメーカー,ボブ・ベティナルディにちょっと時間を割いてくれないかと頼んできた。20分の会話は5時間のブレインストーミングセッションとなり,その結果,ベンソンはキャメロン時代に注いだのと同じリソースを,ベティナルディにも注ぐこととなった。

2008年,ベティナルディはミズノのために製品を制作するOEM契約を終えたばかりで,自らのパターを独自のエリートブランドとして確立したかった。間違いなく,その世界では,キャメロンとその他すべてという構図であった。ベティナルディは,他の多くの挑戦者と同様,後知恵ではあるが,ベンソンはベティナルディのために,そこに至るまでの青地図を描いた。

キャメロンと依然仕事をしている片手で数えられるぐらいの人を別として,ベンソンはきっと,ベティナルディが望む場所へと導ける,唯一の人間だった。

その後5年間,キャメロン時代以上の役割を,ベティナルディで果たすことになる。彼は,設計と戦略構築セッションに,さらに関わることになった。他の多くの従業員と同様,採用された彼のアイデアもあれば,唾棄されたその他多くのアイデアもあった。2013年には,ボブ・ベティナルディの息子サムが大学を卒業してすかさず父のもとで働くようになる。現在はそこで Executive Vice President を務めている。

客観的な事実として,このことはベンソンのベティナルディに対するポテンシャルを制限することになるし,それまで彼はベティナルディブランドの確立と拡張に欠かせぬ存在であったものの,彼はつねにどこかしら外部者のままだった。それが悪いということではないが。

キャメロンとベティナルディとの双方で,ベンソンは認定販売者ではあったが,直接の被雇用者ではなかった。そのことで,ベンソンは内部事情を知る位置にありながらも,完全なる忠誠を求められてもいなかった。ベティナルディでは天井に達したものの,ベンソンは彼の旅がいかに稀有で特別であったかを,理解することとなった。

「スコッティとボブとともに仕事をすることで学べたすべてのことに対して,深く感謝したい。彼らなしでは今の自分はありえない。」

ネクストステップ

彼は自らが知る以前から,起業家気質を持っていた。彼はつねに,今の丘を越えた先にあるものを見たかった。「ノーと言われるのが嫌いだった。人が自分に言うことに耳を貸さなかった。それでときどき失敗はしたけれど」と,ベンソン。しかし,ときにはこれほど強力なモチベーションもなかった。

ベティナルディ時代にベンソンは,彼のデザインが尖りすぎていて「私たちのクライアントには似つかわしくない」と,ベティナルディのお偉方に言われていた。ベンソンが望んでいたのは,彼の専門性とコレクター気質のこの上ない理解に基づいた彼のデザインを,ベティナルディの意思決定者が見て信じてくれることだった。

このような現象は,初めは不満がたまるものではあったが,ベンソンにある認識を与えることになった。それは,彼のアイデアがいいかどうかは,コレクターがお金というかたちで投票をするオープンマーケットでテストできない限りは,知る由もないということを。

自らのビジネスを立ち上げることは大きなリスクではあるが,しかしある意味,それは論理的な流れである。キャメロンやベティナルディに次ぐものはいなかったし,ぶっちゃけいたとしても,ベンソンにはすでに日本と韓国での販売業者とのつながりがあるし,ビジネスを進める上で必要となるすべての人間の連絡先が携帯電話に入っている。いちばん大事なことだが,長年の経験から,彼にはアイデアとビジョンがあるということだ。

もし…

もし彼がチームを組むなら,既存のかたちを維持しながらそこに改良を加えていくというスタイルにはならないだろう*4。そこにはよく練られた戦略があるだろうし,彼がしたことをみんなが愛するわけではないという理解がある。中傷する人がいれば,それは彼が正しい道を歩んでいることの前向きな指標となるだろう。

ベンソンは,彼の名前ではなく,そのデザインと製品の質に惹きつけられる人を望んだ。なので彼は,人々をまずブランドに惹きつける(その影にいる人間ではなく)ための発想が必要だった。

他のパター職人とは違って,ベンソンはパター製作から人間の要素を取り除いた。ハンドメイドパターはいいけれど,デザインと仕上げの観点から考えると,ハンドメイドパターは不完全である。ある部分は磨き上げられすぎだし,バンパーは対称形になっていないし,トップラインは正確に一貫した半径を持っていない。これらの不完全性は,ハンドベントホーゼルが正確にシャフト半分のオフセットを持っているかどうかなんて気にしない人たちには,気づかれないままだ。

ベンソンの目的は,技術的に正確なパターを作ること。すべての細かすぎるディテールはCNC工作機械にプログラムされ,そこから出てくるのは,あらゆる個体差やミスを廃したパター。すべてのラインは意図されたものであり,たとえばあるものはアドレス時の特定の見え方を実現するために垂直時に影を落とすためのものだし,あるものは光の反射を避けるためのものだし,そしてもっとも重要なのは,ソールの溝はアドレス時にヘッドが完全にスクエアに座るためのものである。

コレクターとパター愛好者には,こんな質問が投げかけられる。「5時間のハンドメイド仕上げと,50時間のプログラミング,どちらがより印象的か?」と。もしCNCの削りがシングルピースでフローネックの 009/Dalehead を作れるようプログラミングされているとしたらどうだろう。比類なきクラフトマンシップを構成するものに対する期待は,覆されるかもしれない。

これらパターは安価にはならないが,だが並外れた値段はしばしば,彼のブランドが避けたいと思っているカルト的なへつらいの行動を引き起こす。300ドルのボールマーカーと5000ドルのパターは,単一のブランドへの忠誠は本当の収集と同義であると信じる人たちの術中にはまる。「パターを人々の手に届けたいんだ。コレクターはコレクションできることを望んでいる」。

抽選というコンセプトは需要を巻き起こすには問題ないが,しかし,パターを手に入れるよりシベリアで日焼けできるチャンスの方が高いとなると,パター収集は楽しくなくなる。 そしてそれは単にパターだけにとどまらない。ベンソンはヘッドカバーとアクセサリーも提供するつもりだ。これまでの限界にとどまらないものを。そして,カーキパンツと青いブレザーを好む人達のボタンを,ネオンの光と熱狂的な興奮に押しやるようなものを。そして彼は,製品の包装にも細心の注意を払う。それはコレクターが気にするものだからだ。

ベンソンは,人々がお金では内部の世界に入り込めないパター収集の世界に,真正さを取り戻すす。確かに,そこに社会的階層はあるものの,大金の使い手が優遇された地位や特別な扱いを受けることはない。望むのは,コレクターがどの部分が彼らに語りかけてきたか基づいて選び,選択すること。「私はすべてのものを手に入れて欲しいとは思わない。自分が好んだものを入手して欲しいのだ。」

素材とデザイン哲学をさらに深く掘り下げると,ベンソンはひねり出されたラベル(すなわちGSS=German Stainless Steel)や,溶接されたりねじれたネックのような華やかな機能には,それほど意欲的ではない。彼が望むのは,それらパターに,盛られたマーケティング戦略に頼るのではない信憑性があることであり,他とは異なる,そしてまとまりのある見た目があること。Timascus や Damascus のような派手はキラキラには手を出さない。ベンソンにとって303ステンレスは身の回りで手に入るので,それを輸入するために余計な金を払うことはまったく意味をなさない*5。人々はベンソンのパターそのものに惹かれて,それを欲しいと思うだろう。他の誰かが吹き込んだまやかしのアイデアに惹かれるのではなく。

パターを壁に飾って鑑賞する人たちの観点からすれば,そのパターがすべてのプレーヤーに対して普遍的に優れているとか,画期的なテクノロジーを持ち込んだなどとは,ベンソンは主張するつもりはない。しかしそのパターの細部への気配りから,彼のパターは特定のプレーヤーにとってはより良いものであるかもしれない。さらに,彼はこれをひとりでやろうなどとはちっとも思っていない。彼がかつてそうであったように,狂ったベンチャーにコミットするチームが必要なのだ。

ベンソンのチーム

ニックはビジョナリーであり,「ねぇ,これはどうだい?」とつねにアイデアを思いつき,誰のアイデアよりはどれほど優れたアイデアかを気にする,クリエイター気質の持ち主だ。かつて彼のアイデアは,彼よりもっと名の知られた人間に盗まれたことがある。ベンソンは同じことはしない。「ひどいよね。自分だったら,他人のアイデアを自分の手柄のように謳うなんてできないのに……」

成功はチームメンバーの強みの集合が彼の弱さを補うチームワークの結果として現われるというアプローチを,彼はとる。彼はツアーの運営をする人間と,ショップを効率的に運営できるようにするための施設エンジニアを雇う。彼には日々のオペレーションをまわすための人間が必要で,そしてニックがベティナルディにしたように,彼に数百の細かいデザインに目を配らせ,そして「不十分だったな,ちくしょう」と言わせる,クリエイティブディレクターが必要だ。

このチームが整うと,彼はPGAショーでブランドを立ち上げる。小さなスペースを借りてブースを出して,ただ1本のパターとヘッドカバーを飾り,その脇には魅力的な女性をふたり並べて。ことが本当にうまく運べば,彼は最初の9ヶ月で1500本のパターを売って,少なくとも1人のシカゴ地区のPGAツアープレイヤーのバッグにパターを入れる。

そしてそれは

ニックは自分のブランドがどうするかをはるか前に決めていたのは事実だが,これほど早く立ち上がるとは思ってもみなかった。いまの使命は,デザインからデリバリーまでのパターにまつわるすべての要素をみて,それらを少し良くすること*6。正確なミリングは比較的不正確なハンドフィニッシュにとってかわり,ヘッドカバーは過剰な縫い糸とクリエイティビティの発揮のためのキャンバスの役割を果たす。彼のブランドは標準的な既成品の製品よりはいい感じで高めの値段設定になるが,二番抵当を入れる必要があるほどの値段にはならない。

それはちょっと主張が強いけど,しかしこの日から,ベンソンと彼のチームは何が違ったことをして,パターコレクションという失われたアートの修復に取り掛かる。

あぁそう,そしてそこに,ベンソンのブランド名がある*7

*1:映画『ボヘミアン・ラプソディ』のおかげでも思い出せれることになりましたね。

*2:アメリカの小説家,ハーマン・メルヴィルの小説『白鯨』。没した捕鯨船でただひとり生き残った乗組員の,白いマッコウクジラ「モビィ・ディック」に対する報復の執念をさしていると思われる。

*3:イングランド生まれのカナダ人ジャーナリスト

*4:原文は "it wouldn’t be a build the plane as you fly it operation"。初めて知ったんですが,The expression “building the plane as you fly” has become increasingly familiar across education. It captures the feelings of risk and uncertainty that accompany designing innovations and testing them in real time with actual participants, all while being responsible for keeping existing operations running. だそうです。

*5:ということはやっぱり,キャメロンのいうGSSって要するに303SSと変わりないってことなんですかね。パター素材、SUS303、SUS304、GSS、の違い。 - パター

*6:その割に東京での販売店が松屋銀座ってのもどうかと思いますが

*7:それが「SWAG」なんですが,普通名詞だと「盗品,略奪品」って意味があるし,あるいはインターネットスラングとして「simple wild ass guess」の略,「単なる思いつき」って意味もあるらしい。前者だと,彼のアイデアをかつて盗んだらしいスコッティやボブへの当てこすりになるし,後者だと「まぁちょっと思いついたんですけどー」って言いながらすげー凝ったパターでござんす,みたいになるし。どっちでもいいけど。