Linkslover

世界中のどんなコースに行っても恥ずかしくない/戦える/コースと対話できる。そんなゴルフをしたい。このブログ記事は,僕の不眠症からできています。

ピート・ダイのインタビュー記事|Golf World Top 100

プレーヤーズも近いので訳しておきます。評伝というほどのものでもなくて,軽いインタビュー記事ではありますが,ちょっとした面白いエピソードが詰まってます。

f:id:golf103:20200214190029j:plain

ソース

Pete Dye — Golf World Top 100

拙訳

ピート・ダイ。同世代の中でもっとも影響力のあったゴルフコース設計家のひとりが,94で亡くなった。そのキャリアの中でダイは数多くのゴルフコースを設計したが,その活動は1959年に妻のアリスとともに始まった。アリスも昨年2月に91歳で亡くなっている。ダイのポートフォリオは,それは6つの年代にまたがり100を上回るコースがあるが,その中にはメジャー大会とPGAツアー会場もいくつか含まれている。例えば,TPC Sawgrass の Stadium Course,Hiawah の Ocean Course,Harbour Town,今年(2020年)のライダーカップの会場となる Whistling Straits の Straits Course など。それ以外にも,The Honors Course や Pete Dye Golf Club など,高い評価を得ているコースがある。

「ピートはゴルフ界に素晴らしい痕跡を残し,それは決して忘れ去られない」と,声明が発表された。「私たちは心から彼がないことを寂しく思う」。

以下は,2015年にわれわれの姉妹誌である「Golf Illustrated」に掲載された,ダイのインタビューである。ここから,彼の創造のもとや彼の背景,ゴルフに対する考え方などがうかがい知れるだろう。

私の父や不動産業界にいて,熱心なゴルファーになった。母の一家は Urbana あたりに古い農地をたくさん持っていて,そこに他の人たちと9ホールのコースを作ったんだ。まだそこにあるんだけど……,私のいちばん下の息子 PB が,その70年後に9ホール追加したんだ。

1957年,オハイオの Inverness であった全米オープンに出られることになった。チェックインして自分のロッカーを探したのを覚えている。見つけたんだけど,なんと隣のロッカーはベン・ホーガンだったんだね。「なんてこったい,ドキドキするねぇ」と思ったよ。それから分かったのは,彼は胸より上に腕が上げられなくて,プレーできないということ。なので,それがひとだけチャンスを逃したことかな。本当に残念に思うよ。第2ラウンドは77で予選通過できなかったけど,でもいい組だったよ。スコアはアーノルド・パーマーと同じだったし,ジャック・ニクラウスより8打も良かったんだよ。

1963年と73年のアマチュア選手権にも出られた。どちらも会場はセントアンドリュース。スコットランドに早めに向かって,アメリカ人は聞いたこともないようなゴルフコースでプレーしたものだ。ずっと北のアバディーンまで向かって,Cruden Bay と Murcar と Royal Aberdeen とをプレーしたのを覚えているよ。

1944年に米軍に入り,第13空挺部隊と呼ばれるパラシュート部隊に入ることになった。ジャンプ以外は本当にしたくなかったんだけど,8月に戦争が終わったとき,私にはまだ6ヶ月の従軍期間が残っていた。Fort Bragg に戻ってきて,そしたら大佐が誰かゴルフを知ってる者はいるかと訊くんだ。それで私は手を上げた。それでコースのグリーンキーパーとなったんだ! 大佐は私を毎日ピックアップして,パインハーストにプレーしにいった。それでドナルド・ロスを知ったんだけど,彼は Fort Bragg のコースも設計している。

パインハーストは第二次大戦のあいだ開放されていて,油脂加工された砂の代わりにバミューダグラスをグリーンに植えていた。でももちろん,そこでの人々はサンドグリーンでプレーするのに慣れていて,彼らは追肥をしてスムーズに保っていたんだ。その結果,グリーンは12から16インチの高さにまで育った。ロス氏がずっと私に言っていたんだが,いつか頂点を削ってやろうと思っていたんだと! 彼は1948年に亡くなって,だからそれはそのままで,オーナーも削りたいと私に言っていたのだけど,売ってしまったので,またしても手は加えられなかった……。で,あのドーム状のグリーンは,それ以降あらゆる場所でコピーされている。

私と妻のアリスが1950年にインディアナポリスに移ってきたとき,私はそこのカントリークラブのグリーンキーパーにされたんだ。保険のセールスマンとして働いていたけれど,同時にコースの農学も勉強していてね――試験には受からなかったけど――できるかぎりは。そしたら農家のひとりが私のところにやってきて,コースを作ってくれと頼んできた。その夏わたしはテニス肘になってしまってゴルフができなかったから,だからやってやろうかと思ったんだ。私たちはオークモントを作ろうと思ったんだよ! ミシガン大学には3万人の学生がいるんだけど,そこの Harland Hatcher 博士がある日クルマで通ってそのコースでプレーしたんだ。きっと人生最高のラウンドだったんだろうね,彼は私を呼び止めて,私は設計図の書き方とか技術的なことは何も知らないって言ったんだけど,大学用のコースを作ってほしいといって,私を雇ったんだ。それ以降,土を耕す仕事をしているよ。

Sawgrass は,最初に行ったときは沼地だった。でもそこでプレーしてツリーラインを見てみれば,盛り土されたフェアウェイは皆無だってことに気づくだろう。幸運にもどうにかそれができた。ポンプか排水を使ったのかな。ご存知の通り,18番の池の水は,海抜マイナス6フィートにあるんだ。それでどんどん掘っていかなきゃいけなくて,17番についたとき,砂を見つけた。どんどん掘っていってフェアウェイに持っていって,それで大きな穴が残って,パー3を置く場所がなくなったんだ。「さてどうしたもんかねぇ?」ってアリスに言ったんだが,彼女は「アイランドグリーンを作ればいいじゃない」と答えたんだよ。

TPCのクラブプロ Pete Davidson は,Sawgrass の17番にボールを100個持っていって,100個ともグリーンに乗せたんだ。どうしてか分からないが,そこで大会が開かれて賞金がかかると,プレーヤーたちはシーズンさで最悪のスイングをしちゃうんだね。130ヤードしかないし,グリーンも小さいわけじゃない。5000平方フィートもある。Royal Troon の Postage Stamp みたいな,水玉みたいに小さなグリーンってわけじゃないんだ。

ツアープレーヤーの飛距離はかなり伸びた。でも,ずっとそうだったんだよ。ドナルド・ロスからの手紙がある。彼も,今のボールは飛びすぎだって書いてるんだ……1923年に。でも最近はそこからさらに飛ぶようになったね。その結果,ふたつのことが言える。ひとつは,ツアープロとレディークラブゴルファーとの差が200ヤードに広がったこと。もうひとつは,コースの設計と維持のコストが増大してしまったこと。コースのオーナーはいつか大会を開催したいと思うものだからね。

いつの日か,R&A と USGA とがその流れに歯止めをかけると思う。ツアープロが320ヤードも飛ばすんじゃなくて,260ヤードぐらいしか飛ばないボールを作るようにすると思う。私がそこそこのプレーをしていたころ,250ヤードも飛べばかなり飛んだ方だったんだよ。ジャックは265ヤード飛んだ。それは320ヤードとは大きな違いだよね。

ゴルフはただのゲームの枠を越えることがある。ドミニカ共和国に行って,そこで首都にコースを作ってほしいと言われたんだ。でもその土地が気に入らなかった。彼らは東の方に土地を有しているという。訊けば,「55万エーカー」だと。「そしたらなんとかコースが作れましょうな」と言ったんだが,35マイル以内に道路がなかったんだね。とにかく私は Teeth of the Dog を作り,今では90ホールもあるよ。何より素晴らしいのは,そこで5万人が働いているということだ。5万人の雇用を産むというのは,なかなかあることじゃないからね。